ZEPの聖地を旅する

−ケルトの地を行く−

-2006年7月23日〜2006年8月2日-

ダブリンの街

序章

LiZaさんのアイルランド転勤が決まったとき、「LiZaさんがアイルランドにいる間に遊びに行く」という約束をしていました。
彼女はまたいつ転勤になるか分からないし、今年の夏はそのチャンスかなと思いました。
アイルランドとその周辺は王子の愛するケルトの地。
ケルト文化を極めることは王子に近づく大きな一歩となるでしょう。

海外に行くにあたって「娘をどうするか」という問題に突き当たりました。
娘も今年12歳。旅行は大人料金です。金がかかる・・・・
しかし娘は日ごろから言葉の端々に「今度イギリスに行く時は・・・」などど付け足しているし
母が渡英する時は当然自分も行くものだと思っているようでした。
「日本に置いて行ったらグレるかな??」
徐々に体力的に追い抜かれてはいましたが、娘が12歳になったある日今まで母が圧勝を誇っていた腕相撲でもついに負けてしまいました。
「グレて家庭内暴力に走られたら、負ける・・・」

しょうがないので、ハリーポッター関連のところもちょこっと立ち寄ることにしました。

アイルランドと北アイルランドに行ったらZEPがコンサートを行なった会場を見たいという思いがありました。
ZEPの71年は「バック・トゥ・クラブ」ツアーという企画のツアーでスタートしました。
アメリカでブレイクする前にZEPを受け入れてくれた小さなクラブや大学でお礼の意味も込めてコンサートを行うというものでした。
しかし、このツアーのスタートは意外にもロンドンではありませんでした。
初日は3月5日北アイルランドのベルファスト、そして2日目が3月6日アイルランドのダブリン。両日ともZEPがこの地でコンサートをするのは初めてです。この日を有名にしたのは初めて「天国への階段」が聴衆の前で演奏された事でした。

その事以上に私が印象的だったのは、彼らが内戦で荒廃し、危険な状態の北アイルランドでコンサートを行ったということです。この時期、この地でコンサートをしようというミュージシャンはあまりいませんでした。
コンサート・ファイルによるとベルファストのアルスター・ホールの周囲はガラスの破片だらけだったというし、ダブリンに行く途中も道に迷って暴動地域に入り込み、かなり危ない目にあったようです。
しかしステージでは素晴らしい演奏がなされ、観客は熱狂し、コンサートを楽しんだということです。
憎悪が渦巻く地でひとときの平和な時間、愛の歌。
ZEPのコンサート後も紛争は続きました。U2の曲で知られている「血の日曜日事件」は翌年1972年1月30日、デリー市で。
公民権を求める穏やかなデモ行進だったにもかかわらずイギリス軍が市民に銃を発砲しました。
長い年月を経て、ようやく平和が訪れつつあるアイルランド。
是非ZEPがコンサートをした会場に行き、今この地がどうなっているのか見てみたい。そう思っていました。

 

7月23日(日) 福岡・雨、東京成田・雨

夏休みになったというのに異常気象で梅雨明けを迎える前に日本を後にすることになりました。
雨が激しく降る中、福岡を旅立ちました。
羽田空港からリムジンバスで成田へ。こちらも雨。
成田のホテルに入るとテレビでオールスター第2戦をやっていました。
相変わらず新庄が注目の的でした。彼のパフォーマンスはプロとして素晴らしいなと思います。
が、
松中は手術の後なのであまり試合に出ないということ。
王監督も入院してるし私の中ではイマイチ盛り上がらないな。
1戦目は仕事で全く見られませんでしたが、この2戦目も見たときは終盤になってました。
160キロの速球を投げるクルーンがこともあろうに私のムネリンの足にボールをぶつけました。許さーん!

 

7月24日(月) 成田・雨、ロンドン・晴れ、ダブリン・曇り

雨の成田をBAで出発。
BAの楽しみはタダのハーフボトルワインですが、今回も子どもの手前1本で我慢しました。
今回夏休みを利用してロンドンに学校の行事で行ってるっぽい学生さんをたくさん見ました。
最近の学校の旅行もリッチになりましたね。
このフライトで印象的だったのは、イギリスの若者のグループが客室乗務員室に行ってもらってきたカップラーメンを座席に持ってきて食べだしたら
それが学生さんを中心に飛行機の中でブームになってしまいました。
私達の隣の席の韓国人のご夫妻もカップラーメンを食べていました。彼らだけは韓国のカップ麺でした。

長時間のフライトの末、足の痛みと戦いながらようやくロンドンのヒースロー空港に到着しました。
ダブリンに行くためには、まずヒースローで一旦英国に入国し、国内線扱いの便に乗らなければなりません。ヨーロッパも異常気象ですごく暑く、到着したロンドンも30度近い気温でした。「福岡と変わらんやん・・・・」。ヒースローからは外に出なかったのですがロンドンっ子がとっても暑そうに歩いていました。
無事に入国の手続きを済ませ、ロビーに出た後国内線のフロアに行きます。これからエアリンガスという航空会社の飛行機にチェックインしなくてはなりません。
プリントアウトしたエアリンガスからのEメールをパスポートと一緒に見せれば簡単にチェックインできると聞いていたのでカウンターの女性に見せたところ「そこのマシーンでチケットを出すように」と言われました。
苦痛に顔を歪めて「マシ〜〜〜〜ン!?」と聞き返したのですが、彼女は涼しい顔で「yes」。
私は日本でも機械を使ってチェックインしたことがないのに。
しかも日本と違ってこっちのマシーンは英語で聞いてくる。何を聞いてるんだろ?
結局2度マシーンから逃げ出して、BAの職員とエアリンガスの職員に教えてもらって何とかチケットを出すことが出来ました。
その様子を娘がおもしろそうに見ていました。ちくしょお。

チェックインが終わったらヒースローの中をうろうろしましたが、お店には「su-doku」の本がたくさん売られていました。
これはもちろん日本の「数独」ですが、イギリスで大ブームになって選手権まで開かれているんだそうです。
早速娘が買って待ち時間に解いていました。

エアリンガスはロンドンから1時間ほどしてダブリン空港に到着。LiZaさんが迎えに来てくれていました。
まずはLiZaさんのアパートの部屋に荷物を置かしてもらって、街に出ました。ここも素敵なヨーロッパの街並み。
石畳の通りを歩き回りました。王子が2005年にコンサートをしたオリンピア劇場も見ました。

オリンピア劇場

U2が経営するホテルも見ました。

U2ファンの憧れ Clarence Hotel

チャイニーズレストランで食事をした後LiZaさんの家に帰ったら11時を過ぎていました。

夏は夜10時ごろまで明るい

 

7月25日(火) ダブリン・晴れ

この日はダブリンとその近郊を回ります。
ここでアイルランドの歴史について少し説明しておきます。
ケルト人は紀元前からアイルランドの地に住んでいました。かつてはドルイドといわれる僧が政治的・経済的に民衆を指導していました。
この時代に育まれたケルト文化が今もアイルランドの根幹をなすものとなっています。
それからキリスト教の宣教師がローマから度々島を訪れますが紀元400年ごろに渡来した宣教師、聖パトリックにより教会制度が確立しました。
アイルランドではキリスト教はケルトの文化や宗教と実にうまく溶け合う形で広まっていきました。
長い年月に宗教的にも学問的にも充実した平和な時代が続きましたが
その平和を最初に脅かしたのが8世紀のヴァイキングです。ヴァイキングは略奪と破壊を繰り返しましたが、10世紀にアイルランド側が勝利すると次第におとなしくなっていきました。そして港の近くに都市を建設し貿易をするようになりケルトの民とも融合していきました。
ダブリンもヴァイキングが作った街の一つです。

LiZaさんの車でホウス半島と先端の崖の上に行きました。
アイルランドという国は海に面した断崖絶壁が多く、ここはダブリンからすぐに行ける雄大で美しい絶景が見れるところです。

カモメの声が響き渡ってました

崖の先端までは車で入れないので港に車を置いて歩いていき、あと2、3歩行けばまっさかさまに落ちるようなところで、LiZaさんが作ってくれたお弁当を広げて食べました。

素敵なハイキングコースです

それから港に戻り、歩いて港の近くにあるビーチに下りて行きました。
LiZaさんがサンダルを用意してくれていたので、それに履き替えて、波に足をつけてじゃぶじゃぶ歩き回りました。
ここにはU2のドラマーのLarry Mullen Jr.のビーチハウスがあるのでそれを探しに来たのでした。
WALLACEを散歩させていたおじさんが、ビーチハウスを教えてくれました。

Larry Mullen Jr.のビーチハウス

それだけでなく「Bonoの家はKillineyにあるよ。」と他の事まで教えてくれました。
ダブリン市民はU2の事をとてもよく知っているようです。

街に戻り国立競技場に行きました。ここはかつては「BOXING STATDIUM」という名前でボクシングの試合が主に行なわれるスタジアムです。
コンサート等のイベントも行われていました。1971年にZEPのコンサートが行われました。

国立競技場

裏口からLiZaさんが近くにいた職員にここに来た理由を説明すると、何とその方は私達を中に入れてくれ、会場を案内してくれました。

スタッフ通用口、ZEPもここから会場入りしました

ここはボクシング以外のイベントがなければ常時ボクシングのリンクが設置されているようです。座席2200シートあります。

暗くてすみません。左上がステージ

案内をしてくれた職員の方はZEPがコンサートをしたステージに上げてくれました!
「王子の立ち位置はここかな?」
ステージで一緒に写真も撮りました。

ステージ中央で

親切だったBobbyさん、ありがとうございました。

会場を出てアイルランドを代表するバーナードショーの生家と作家イエイツが晩年すごした家を見に行きました。

イエイツが晩年過ごした家

それからLiZaさんの会社に車を置いて、電車でセントスティーヴンズグリーンパークまで戻り、
アイルランド銀行やセントスティーブンス公園を通りカフェで昼食を食べました。アイリッシュシチューが美味しかったです。

アイルランド銀行、元々議会だったのですがよそ見防止のため窓がありません

そこから商店街を歩いトリニティ大学まで行きました

「ケルズの書」「アイルランド最古の竪琴」、ものすごく古い図書室を見学しました。
「ケルズの書」は8世紀に制作された聖書のケルト装飾写本。世界最古のケルト装飾写本のひとつとされ、アイルランドの国宝です。
とても美しい色で、8世紀当時、本が作られた時はどんなに美しかっただろうと思いを馳せました。
お土産屋さんで買い物をして、観光客であふれた大学を出ました。それからLiZaさんの会社に車を置いて街中にもどりCD屋さん(U2関係がたくさん!)でポストカードと王子が昨年ダブリンで行なったコンサートのブートを発見、getしました。

街のCD屋さん

一旦歩いてLiZaさんの家に戻り、私は出す予定にしていたポストカードを書きました。ここでLiZaさんは職場に行き、私と娘は街に出ました。まずは中央郵便局に行き、切手を買って葉書を出しました。(初体験!)
この中央郵便局は激動の時代、1916年のイースター蜂起の際、共和国軍側が占拠し指令本部となった場所です。結果イギリスの大軍に制圧され
たくさんのアイルランド人が処刑されました。この時処刑を逃れた中には独立宣言後にアイルランド大統領になったイーマン・ドゥ・バレラや後に頭角を現した政治家マイケル・コリンズがいます。
それから歩いてナショナルミュージアムを目指しましたが、着いた途端に閉館時間になりました。(涙)

夕方ゲイティ劇場前でLiZaさんと待ち合わせ、近くのカフェでシーフード料理を食べて、リバーダンスを見に行きました。
ケルトの文化であるアイルランド音楽と、堅い靴で床を踏み鳴らして踊るステップダンスであるアイリッシュダンスが融合したのがリバーダンスです。
ステップは力強く、踊る女性は美人が揃ってました。踊る男性に美青年を揃えると完璧なものとなるでしょう。
観客はとても年配な方が多かったのですが、皆ノリがよくてステージを盛り立てていました。これが若い子が集まるロックコンサートだとどうなるのかな?と思いました。

 

7月26日(水) ダブリン・晴れ

今日はダブリン郊外のケルト文化で有名な場所に行きました。
午前中はグレンダ・ロッホ村。この村はウィックロー山の麓にあり6世紀の聖ケヴィンが修行をした場所です。
アイルランドのキリスト教の聖地になっています。この時代はまだヴァイキングの侵略も受けず、学問と宗教と文化が充実し「聖者の時代」と呼ばれるほどでした。
夏場とあって観光客の団体さんがたくさん来ていました。すべての建物から荘厳な雰囲気が伝わってきます。壁は大小さまざまな大きさの石が実にうまく組み合わさっています。

聖ケヴィン教会 高さ30mのラウンドタワー

墓石の多くはケルティック・クロス(円環のついた十字架)が付いています

村を出て途中の道沿いにAward of Irelandを受賞した事があるという看板を掲げたカフェで昼食を取りました。
アヒルとチキンの料理とともに、アイリッシュウィスキーがたくさん入っているアイリッシュコーヒーを飲みました。

それからタラの丘に行きました。
タラの丘はアイルランドのケルト文化の中心地で「タラ」という言葉は集合地を意味するそうです。

丘の下から見上げて

ここでケルトの王の戴冠式が行なわれました。

ここで儀式等が行なわれたそうです

ちなみにアメリカ南部が舞台の「風と共に去りぬ」。スカーレット・オハラの家は「タラ農園」です。
これはオハラ家がアイルランドのタラからアメリカに移住してきたことを意味します。

なだらかな丘の上にここで儀式が行なわれていたような石造りの場所がありました。
丘の下はたくさんの羊が草を食べていて娘が突進していくとわらわらと逃げていきました。

 娘の出現に羊はいい迷惑でした

それからニューグレンジ古墳に行きました。
途中移動中の牛の群れに行き当たってしまいました。こうなると牛が去っていくまで待つしかありません。

牛が去るのをひたすら待つ

ニューグレンジ古墳はケルト人もいなかった5000年以上前の新石器時代の古墳です。
高さは11m、直径は79〜85mもあります。

広大な古墳。世界遺産になっています

ここの職員のAlanさんという方が私が着ていたZEPTシャツを指して、「LED ZEPPELIN、4」と言いました。
ZEPTシャツのおかげかとても親切に案内してくださいました。
この古墳の入り口の上には明かり取りの窓があり、冬至の頃、朝日の当たる10数分間だけ古墳の内部が明るく照らされるのだそうです。
Alanさん、いろいろと親切にしてくれてありがとう。

Alanさん、どうもありがとう

ダブリンに帰る途中、U2のBONOが子ども時代を過ごした家を見ました。

BONOが幼少の頃の家

ダブリンに帰り、スーパーマーケットで買い物をして
夕食に王子の今の妻の国であるモロッコの料理を食べに行きました。

 

7月27日(木) ダブリン・曇り、スノウドニア地方・晴れ

今日は久しぶりのウェールズ。フェリーを使ったスノウドニア日帰り旅行です。
タクシーでダブリン港のフェリー乗り場に行きました。ウェールズはUKなので出国する事になりますからパスポートが必要です。
朝食は家で済ませていたので、フェリーの中のテラスで飲み物や昨日スーパーで買ったお菓子の山を広げていたら、朝食待ちの隣の席の子どもから矢のような視線が飛んできました。ずっとお菓子に視線が釘付けでした。
ダブリン港から出航して2時間弱でウェールズのホーリーヘッド港に到着です。
レンタカーを借りて出発です。まずはカエルナヴォン城(カナーボン城)に行きました。この城はローマ軍の駐屯地として作られました。

広大なカエルナヴォン城、この中庭で戴冠式も行なわれます

歴史的にはウェールズ侵略を進めていたイングランド王、エドワード1世の子どもエドワード2世が生まれた事により、「プリンス・オブ・ウェールズ」という称号ができたところです。
チャールズ皇太子もここで戴冠式をしました。
城の中庭に式場らしき場所がありました。
見張り用の窓の向かうにスノードン山が見えました。

城から見える街並みと向こうに見えるはスノードン山

次はそのスノードン山に行きました。
UK最高峰のスノードン山は「2つの顔を持っている」と言われています。「おだやかな美しい顔」のスノードン、こちらは登山列車が走り
花畑や牧場を見ながらハイキングも出来ます。もうひとつは「険しく厳しい顔」のスノードン、ここは世界でも1級のロッククライミングの地となっています。
ヒラリーがエベレストを登頂する前にここで訓練を積んだそうです。
スノードン山の近くにはアーサー王がエクスカリバーを沈めたという伝説の湖もあります。
予定では登山列車で山頂近くまで行くつもりでいましたが、さすがは北ウェールズ1の観光の目玉の地です。

登山列車の出発点スランベリス駅

登山列車は4:30まで予約でいっぱいでした。これでは帰りのフェリーの時間に間に合わないので、サンドイッチを買って、車で周辺をドライヴしました。

休憩所からスノードン山が見えます

それからコンウィ城に行きました。コンウィ城はエドワード1世が作った城で城の中に市などがあり、コンウィは城壁内に城下町を形成した街です。
市を持つ人は城下町に住んで市の使用料を払い、その代わり城壁とイングランド軍に守ってもらうというものでした。
そして城の中に入れるのはエドワード1世の奨励により移住してきたイングランド人でした。
城内に入ろうと思っていたのですが、入っていたらフェリーの出航時間に間に合わないことが判明。
しかたないので外から眺めるだけにしました。

外から見たコンウィ城

ホーリーヘッド港から帰りのフェリーに乗りました。
帰りは船内にピエロさんがいて、子ども向けにショーをやっていました。
ダブリン港に着くと、入国審査を受けました。
フェリーからバスに乗りダブリン市内に。ワンマンバスの運転手さんはとても面白い人で、乗客の言葉にいちいち突っ込みいれるし、彼がアナウンスするたびに笑いが起こっていました。

この日はアイルランド最後の夜なので、子どもOKのアイリッシュパブでアイリッシュ料理(ソーセージとポテト)と、念願のギネスビールを楽しみました。

 

7月28日(金) ダブリン・曇り、ベルファスト・曇り時々雨

この日の朝、LiZaさんの家を出発します。さよならダブリンの街。
綺麗な街並みと夜遅くでも安心して歩けるおおらかな街でした。
そしてあまり細かい事は気にしないアイルランドの国民性は大好きです。

私はこの旅行のために国際免許を取っていました。ラウンドアバウトのルールがよく分かってないのと、街の中は怖いので郊外のモーターウェイ(高速道路)でハンドルを取る事にしました。この日はベルファストまでの約170キロの距離を運転しました。
ゆう「制限速度は何キロですか?」
LiZaさん「120キロから落とさないようにしてください。」
ゆう「わかりました!」
さすがはアイルランド、皆飛ばすのね。と私は120キロからスピードを落とさないように気をつけて運転しました。
しばらくして腑に落ちないことがあるので
ゆう「今抜いた車は100キロぐらいしか出ていないと思うのですが大丈夫ですかねえ。」
LiZaさん「さっきの120キロというのは冗談です。」
ゆう「そうでしたか。」
私、真面目な人間ですので騙さないでね。

私が楽しみにしていたベルファストの街。
とても落ち着いた感じの街で、ガラスの破片はもちろん、ごみもあまり落ちてなくて、観光バスが何台も走ってました。

ZEPがコンサートを行なったアルスターホールは何のチェックもなく入る事ができました。

アルスターホール、緑の矢印が私です

私が今まで見てきたコンサート会場で一番美しい会場でした。

周囲は美しい花が飾られていました

そして写真撮影も自由にしてよいということでした。1階席は27席X27列で729席ありました。
格調高い造りのホールで、主にクラシックの演奏会が定期的に開かれているようで、ここでZEPが演奏したのかと不思議な気持ちになりました。
自由にしてよいというお墨付きをいただいたので、ステージに上がりました。

ホークスのユニホームがステージに立つ歴史的瞬間

35年前王子はどんな気持ちで客席を見ていたのでしょうか?
この日、夜7時から無料で演奏会があるから来ないかと受付の方から声をかけてもらいました。

一旦ホールを出て横にあるイタリアン料理のカフェで昼食を取りました。何とメニューに「TERIYAKI」のチキン料理がありました。
娘が注文し私も一口食べましたが、日本の照り焼きチキンとはちょっと違う感じがする・・・それほど旨くないかも。

それから車でジャイアンツ・コーズウェイに向かいました。
まずはダンルース城。この城はスコットランド出身のマクドネル一族が16〜17世紀に建てた難攻不落の城です。
ちょうど霧につつまれていて、城の中にいると異次元に迷い込んだ気分になりました。

霧のダンルース城

そしてその近くにあるジャイアンツコーズウェイ。「巨人の通り道」という意味で、巨大な多角形の敷石の群れです。
これは太古の時代の火山活動とその後の氷河期活動の末にできた地形だという事です。
駐車場に車を停めて、案内所から出ているバスに乗って現地に行きました。
ダンルース城とジャイアンツコーズウェイ・・・「聖なる館」の世界に自分がいるなんて夢のようです。

ホークスのユニホームがジャイアンツコーズウェイに座る歴史的瞬間(ムネリン見て!)

海が荒れていて台風の時のような大波が寄せている中、私はLiZaさんに言われるまま写真のポーズをつけていました。
「ここでしゃがんでください。」
「右足をもっとのばして」

「聖なる館」です

娘はこの地形が気に入ったようで、帰りのバスが来るまで走り回ってました。

案内所でおみやげを買って再びベルファストに戻ります。
アルスターホールのクラシックコンサートに行きました。
私は娘が小学1年の時からキーボードを習わせていて
機会があればオーケストラの生演奏を聴かせてあげたいと思っていました。
それがZEPがコンサートをしたアルスターホールでかなうなんて・・・素晴らしい演奏に感慨もひとしおです。

演奏会が終わり、近くのホテルで夕食を取った後ベルファスト港に行き、車の中で仮眠を取りました。

 

7月29日(土) スコットランド・曇り時々雨

ベルファスト港、夜中の2時半ごろフェリーに車で入りました。
車からフェリーの客室に行き、長椅子で睡眠の続きを取ります。
3:15出航のフェリーは6:30にスコットランドのストランレール港に着きました。

これからスコットランドのドライヴです。エール州の美しい海岸線を通りました。
途中開いてるレストランもコンビニもないので、グラスゴーのプレストウィック空港に寄りレストランでスコティッシュ・ブレックファストを取りました。
お腹も納まって出発。スコットランドの美しい景色が続きます。グラスゴーを過ぎてハイランド地方に向かいました。

ジギタリスでしょうか?至る所でピンクの花の絨毯を見かけました。

途中何度も車を停めて景色を見たり、写真を撮ったりしていましたが、広いパーキングがあり、おみやげ屋さんもありました。タータンチェックにバクパイプを吹くおじさんがいて
一緒に写真を撮ってくれました。素晴らしい景色にバグパイプの生演奏つきで草原に座って、LiZaさんが作ってくれたお弁当を食べました。

バグパイプのおじさん

そしてグレンフィナンへ。
ここは「ハリーポッターと秘密の部屋」でハリーとロンが空飛ぶ車で魔法学校に向かう途中、ホグワーツ行きの機関車にぶつかりそうになるシーンのあの鉄橋があります。
そのすぐ近くには「ハリーポッターとアズカバンの囚人」でハリーが授業中、ハグリットが連れてきた巨鳥バックビークに乗って、湖の上を飛ぶシーンがありますが、その撮影が行なわれたシール湖があります。
シール湖の近くに案内所がありました。鉄橋は距離があったので写真だけにしました。

矢印がグレンフィナン鉄橋

シール湖は美しい湖で、鳥に乗って飛べたら素晴らしいかも、と思いました。(高いところが怖いので私は遠慮しておきますが)

ハリーポッターが飛んだシール湖

それからいよいよあのボルスキンハウスを目指します。フォートオーガスタスでA82からB862という道に入ります。絶叫マシーンとして遊べそうな
起伏の激しい山道でした。

B862からの景色、ボルスキンは近い 

そろそろFOYERかな?と気をつけていると、左手の道沿いに墓地が見えます。車を停めて見てみると「BOLESKINE CEMETERY」と書いているではありませんか!
墓地の向こうにネス湖が見えます。

ボルスキン墓地、向こうにネス湖が見えます

と、いうことは・・・道を挟んである家が、けっこう小高くて奥にあるので分かりにくいけど・・・おお、やはりこれはボルスキンハウスではないですか!

とうとうたどり着いたボルスキンハウス

人のいる気配はありませんでした。
私達はジミーちゃんが映画で登っていた岩山に登る(格好だけでも)予定でいたのですが
家のすぐ裏は森でした。そこで周辺を車で探してみたら岩のごつごつした低い崖はいくつも見つかりました。しかし撮影地点を特定するには至らず
残念でした。

ボルスキンハウス近くにそれっぽい岩山があれば登ってみました(娘が)

山を探した後、休憩所でLiZaさんが地元の人に聞いてみたところ、ボルスキンハウスは数年前オランダ人の家族が買ったそうですが
いつも住んでいるわけではないそうです。ボルスキンハウスがB&Bとして使われていた時期があったのではないかと聞いたら
「それは初耳だ」そうです。

それからFOYERの隣のWHITEBRIDGE町の「WHITEBRIDGE HOTEL」というとっても素敵なホテルに泊まりました。夕食にハギスを食べ、このホテルの近くで作られたという
ハイランド地方の地ウィスキーを飲みました。何て幸せな私。

 

7月30日(日) スコットランド・晴れのち曇りのち時々雨

朝食にヴォリュームたっぷりのスコティッシュ・ブレックファストを取りました。
LiZaさんがホテルの人に聞いてくれたのですが、ボルスキンハウス目的のZEPファンがけっこうこの地を訪れるそうです。
美しいWHITEBRIDGEを出発しエジンバラを目指します。
その途中ハイランドの美しい景色を楽しみました。

 美しきハイランド

スコットランドはどの景色を切り取っても絵葉書の素材になりそうだと思えるほど自然に恵まれたところです。

ハイランドの牛は長髪です

途中ピーターラビットの作者ベアトリクス・ポター所縁の地バーナムに寄って、記念館の中のカフェで昼食を取りました。

ピーターラビットの世界をイメージしたガーデン

そしてエジンバラへ。エジンバラ城は巨大な岩山の上に作られた風格あるお城です。7世紀よりスコットランド王の居城となっていますが、16世紀以降はスコットランド軍の要塞として重要な役割を持つようになります。

丘の上のエジンバラ城とエジンバラの街

1707年にスコットランドはイングランドに併合されました。
エジンバラの言葉の中には「独立した」という意味を含み、併合後もスコットランドの人々はスコットランド人であることに誇りを持ちつづけています。
エジンバラの街は日曜日とあって観光客がたくさん訪れていました。
城の中では8月のイベント「ミリタリィ・タトゥ」に向けて準備が行なわれていました。
城の中を見学しましたが、どの部屋も荘厳な雰囲気があり圧倒されました。

城の入り口

お土産屋さんでスコッチウィスキーの小瓶を買いました。
街は常にバグパイプの演奏がどこかでされていて、どのお土産屋さんもタータンチェックが飾られています。

このエジンバラはハリポッターシリーズの作者JKローリングが第1作目を書き上げた街でもあります。
貧しかったローリングがカフェでコーヒー1杯で長時間粘ってハリーポッターを書き上げた話は有名ですが、そのカフェのあった場所に行きました。
カフェのあったビルは近くの中華料理店の経営者が買い上げたということで、改装中でした。

カフェの看板がどこかにあるらしいのですが、見えませんでした

できればそのカフェでコーヒー1杯で粘りたかったのですが残念です。

それからスターリングに行きました。
スターリングは丘の上の町で、一番高いところにスターリング城があります。

スターリング城

スターリング城が建てられたのは16世紀でウィリアム・ウォレスの時代より後になります。
スチュワート王朝の有名な女王メアリの戴冠式はここで行なわれました。
城の前にはイングランドを打ち破ったスコットランドの王、ロバート・ザ・ブルースの像がありました。

ロバート・ザ・ブルースの像のもとで

お城からはウィリアム・ウォレスの軍が、イングランド軍を奇襲攻撃で破った川が見えました。

ここで激しい戦闘が行なわれたとは・・・

スターリングは電柱や車がなければ、まるで中世の時代に迷い込んだのではないかと思えるほど綺麗な町並みでした。

とうとうグラスゴーへ。グラスゴーはジミーちゃんやジョーンジーのいるロンドン、そして王子やボンゾのいたバーミンガムに次ぐUK第3の都市です。
言葉の訛りの強いのはUK1だそうです。
この街ははシーフードが美味しいそうで、LiZaさんがシーフードの美味しいお店に連れて行ってくれました。
宿泊はモーターウェイのサービスに設置されているホテルにしました。

 

7月31日(月) グラスゴー・曇り、ロンドン雨

ホテルを出て、プレストウィック空港で朝食を取りました。
今度はRyan Airの航空機にチェックインしましたが、こちらはプリントアウトしたEメールとパスポートでOKでした。
ここでLiZaさんとはお別れです。計画段階からここまで我々親子はおんぶに抱っこの日々でした。
今度は日本でお会いしましょう。その時は私がおんぶしてあげます。(やっぱり無理です)
どうもありがとうございました。

ここからロンドンのミジーさんに会うまでが試練の時です。
最初に言い訳しておきますと、グラスゴーは訛りの強さはUK1です。
空港での案内の放送、客室乗務員さんの話、機内の放送も私は一生懸命聞いたのですよ。しかし「英語で言ってるのかな?」と思う時がありました。
きっとCelticの中村俊輔も言葉で苦労しているに違いありません。
空港の電光の案内ではどのgateに行っていいか表示がありませんでした。「Go to Boarding」とあるだけでした。
搭乗口に行くと客が2列に並んでいます。それで何も考えずに右側に並んでいました。ところが搭乗時間になっても列が動きません。
「おかしいな〜」とだんだん不安になってきました。そろそろ搭乗時間も終わるんじゃないかい?そういえばRyan Airは搭乗時間が終わるとあっさりシャットアウトするってLiZaさん言ってたな・・・・。
もう一つ、トイレに行った娘もなかなか戻ってこなくて心配でした。まずは娘を探しに行こう、と列から離れてみると左側に並んでいる人たちの搭乗がほとんど終わっているのが見えました。
こちらの列が動いていたのは全く気づきませんでした。最初は2列でもだんだん列が曖昧になって3列になってたり4列になってたりしていたためでした。
「こっちだったんだ・・」係員もgateを閉めて中に入ろうとしていました。
その時戻ってきた娘を引っ張って走り「I am going to London!I am going to Stansted airport!」と叫ぶと、係員が振り返り
チケットのチェックをして中に入れてくれました。
ふと横を見ると「France」
「フランス行きだったのね。」フランスに行かなくてよかったと心から思います。

この飛行機のすごいところは、座席がフリーになっています。つまり空いているところに勝手に座ればいいわけですよね。
それで出口に一番近くて、トイレにも近い通路側の座席に娘を座らせて、私はその横に座ったのです。
そうしたら男性の客室乗務員がやってきて何か私に説明するのです。説明はほとんど分かりませんでしたが、どうやら娘の座席は子どもが座ってはいけないようです。もう一度説明してもらいましたが、やっぱり分からなかったので
荷物を持って、子どもが近くにいる座席を探そうと歩き出しました。すると呼び止められて座ってもいい座席を案内してくれました。
あの座席がなぜいけないのか、未だに分かりません。座ってはいけない席があるのに何故freeなのだろうか・・・?

飛行機は1時間10分のフライトの後、ロンドンのスタンステッド空港に着きました。
この飛行場は荷物受け取り場が1箇所しかないのでした。けっこう待ち時間が長かったです。
飛行場を出るとすぐ、空港バス乗り場があるはずです。確かにバス乗り場がありました。
しかしそこはローカルなバス乗り場でした。
何となくおかしいなと思ったので空港職員に聞いたら空港バスの乗り場を教えてくれました。
危うくあらぬ方向のバスに乗るところでした。
切符売り場で市内のGolders Green行きの切符を買い、空港バスに乗る事ができました。
久しぶりのロンドンの街。街並みを見ているだけで嬉しくなってきます。
実は旅行前からプレストウィック空港で飛行機に乗ってからスタンステッド空港に降りて空港バスに乗るまでが大変不安でした。
無事にとは言いませんがGolders Greenに行けて本当に良かったと思います。

バスはGolders Greenに着きました。
バスを待ってる人たちの中に、久しぶりに会うミジーさんと息子さんT君の顔が見えました。
まずはマクドナルドで昼食を取り、スーパーで買い物をしたあと私が泊まることになっているB&Bにチェックインしました。
車のラジオからかかってくるヒット曲で娘とT君とで共通して好きな曲があることがわかりました。
レッド・ホット・チリペッパーズの「ダニー・カリフォルニア」です。
久しぶりにミジーさんの家にお邪魔しました。
以前訪れた時は娘は小学3年生でした。今は6年生。
時間は経過していましたが家に入るとすぐ娘とT君は、まるで昨日の続きのように遊び始めました。
夜はミジーさん手作りのローストビーフその他をいただきました。
Mojoさんは私に再び王子の歌真似を聞かせようと張り切っていたそうですが、仕事で遅くなりお会いする事ができませんでした。
大変残念でしたが、強いストレスを受けずに日本に帰ることができたかもです。
遅くまで遊んでミジーさんにB&Bまで送ってもらいました。

 

8月1日(火) ロンドン・曇り

ホテルでなくB&Bに泊まるのは初めてです。インド系のご夫妻が経営していました。奥さんは優しい感じの人でした。
B&Bというのは中流家庭ぐらいの人が子どもたちが出ていった後の空き部屋を客室として使い、食事もリビングもそこの家族と一緒に、というイメージがありました。
そのイメージを根底からくつがえされました。
トイレもシャワーも共同で、キッチンやリビングなどはありません。
部屋には冷蔵庫とトースターとオーブンレンジと湯沸かし器がありました。
冷蔵庫にはパン、バターやミルク、チーズ。冷蔵庫の上にはシリアル、インスタントコーヒーや紅茶のパックなど
つまり朝ごはんはここで自分で用意しろなのでした。
その他、使える文明の利器はテレビのみ。おお室内アンテナだ。
ベッドのランプは電球を外していました。昨夜、部屋の電灯ひとつだけでは暗かったのですが、それが唯一の灯りだったのでどうしようもなく日記を書くのを断念しました。
部屋にある洗面台は高すぎて顔が洗いにくいのですが、これはしかたがない。
朝食を食べようとトースターにパンを入れようとしたらトースターの規格にパンが合わないのでした。
そこを無理やり捻じ込んで焼き始め、数分後焦げた臭いが部屋に充満しました。うっかり目を離した隙にパンが炭になってました。
無理に詰め込んだのでトースターが上がらなかったのでした。
あわてて部屋に一つだけある窓を開けたのですが、窓の外が通用口のすぐ横になってることに気づきました。
つまり業者さんや従業員さんが出入りをしているのです。我々の部屋は地下にあるため往復する動く足がよく見えました。
「すげ〜〜〜〜」
ここまで徹底してると面白くなってしまうのでした。ロンドンのB&Bはピンキリだそうです。
値段で選ぶとこうなるのですね。

9時半にミジーさんとT君が迎えに来てくれました。
今日は屋内の大きな遊戯施設「
SNAKES AND LADDERS」で子ども達を遊ばせるために行きました。
いろんな年齢、いろんな肌の色・髪の色の子ども達がごちゃまぜになり疲れをしらずに遊びまくっています。
娘もT君も走り回ってました。

 中は蜂の巣をつついたようでした

親は子どもをアスレチックに放り込んでしまえば、施設の横にあるテーブルで飲み物を飲みながらゆっくりできるのですが、お喋りに熱中して子どもに目が行ってない親はいませんでした。
ロンドンの親は日本の親よりしっかりしているのかもしれませんが、現実に子どもが連れ去られるという事態がロンドンでは深刻なのです。
ミジーさんも「この時間、好きなsu-dokuをやりたいけど、やっぱりできないんですよ。」と言っていました。

子ども達を見守る母二人

お昼になったので、SNAKES AND LADDERSを出てキングスバーガーで昼食を取りました。

それからヒースロー空港に行きました。
まずはBAにチェックインの手続きをします。以前ヒースローでチェックインしたときは「危険なものはないか」と聞かれたな。
「ん?」相手の言ってる事がよく分からない。もう一度言ってもらいましたがやっぱり分からない。思わず「ミジーさああん!」
「他の人から預かった荷物はありませんか?と聞かれてますよ」「なるほど」
グラスゴーの時は訛りのせいにしてましたが、ロンドンの英語でも分からないわけね、結局。

エスカレーターで遊んでいる娘とT君を見て、気が重くなってきました。
3年前に電話越しで聞いた彼の泣き声が今でも耳に残っています。
「もう帰らないといけないの」「また遊ぼうね」と言いながら搭乗口まで来ましたが、ここで初めて別れなければいけないと気づいたT君は泣く事はなかったのですが、下を向いて固まってしまいました。
「またね」と言葉だけをかけてgateの中に入りました。今回の旅行で一番つらい時間でした。

さよならロンドン、また明日とは言えないけど、きっと会えるね。

 

8月2日(火) 東京・晴れ、福岡・晴れ

BAは昼前に成田空港に着きました。
それからバスで羽田空港に行きましたが出発までにけっこう時間がありました。
それでモノレールで浜松町に行き、タクシーで
東京タワーに行きました。

東京といえばやっぱり東京タワーでしょ

いろいろとアトラクションがあってけっこう遊べますね。

いろいろなアトラクションで楽しめました

蝋人形館ではやっぱりジミーちゃん人形はありませんでした。

羽田空港から福岡へ向かう飛行機に乗ると私達の旅も終わります。
日程的には、ハードなものでしたが、充実した旅行でした。
羽田空港の大スクリーンでニュースをやっていました。王監督の退院会見が行なわれていました。
監督、よかったね頑張ったんだね。私もスタンステッドで頑張ったよ、比較しようもないことだけど。
帰国後の第1報は嬉しいニュースでした。

今回の旅行の前に予習でU2に関する本を読んでいて分かった事があります。
以前王子がThe Afro-Celt Sound System のアルバムに参加した事がありましたが、「アフロとケルト?」とどうして両者が一緒になるんだ、と疑問に思いました。
その答えはアメリカにありました。
18世紀にアメリカに渡ったスコッチアイリッシュは隔絶された山地に移り住みました。そこで形成されたマウンテン・ミュージックはやがて南下し、付近に住むアフリカから移住してきた人々の音楽と融合しました。
19世紀にアイルランドからアメリカに移住してきた人々は大都会の貧民街に住み、アフリカからやってきた黒人を隣人としました。
そこでも文化の融合がありました。
融合された音楽はアメリカのカントリー・ミュージックからブルーズへ、ロックへと連なっていきます。
つまりケルトの音楽はロックのルーツの一つであったのでした。それはZEPの原点でもあるといえるでしょう。
そんなケルトの音楽と文化に触れる事ができて幸せでした。

今までお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 


 

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